意味

 Fishmansを聞きながら金曜の夜を過ごしています。やっぱり空中キャンプはいい。

 さて、久々にテレビをつけると「ドキュメント72時間」というゲームセンターに訪れる人たちを追いかけたドキュメンタリー番組がNHKでやっていた。番組をみていて普段からの興味と結びつく部分があったので文章を書くことにした。

 最近、定時近くに仕事を終えてかえることが多い。すると定時に帰る人々が想像以上に街にあふれていることに気がついた。彼らの顔を見るとどこか浮かない部分があり、手をみるとどうもシングルの人も多いようだ。推測にすぎないのだが、彼らは会社でも所謂「やりがいのある仕事」をやっているというよりは、指示されたことを淡々とこなしているように思われる。仕事に自分の中で腹落ちする意味を求める自分にとっては苦痛のように思えてしまう。かつ、シングルで一人寂しく夜をテレビ番組を見ながら過ごすのだろうかと推測を進めると、一つの純粋な疑問を抱かざるを得なかった。それは、「彼ら彼女は何故生きていられるのだろうか」というという疑問。そこで以下のような複数の仮説をたてていた。
 1、彼ら彼女には自分には思いも至らないところで、人生を意味あるものにさせてくれる何かがある
 2、なにか意味なるものを掴みとろうとしている意思に支えられている
 3、意味とかそういったものはどうでもよくて、ただ漠然と生きている

 これらの仮説が多くの人にとって1、2で成り立っていて欲しいなと心の中で思う一方で、3が成り立つ場合は何か合法的に死を与えるサービスがあればそれを人々が受けるようなこともありうるのだろうかと想像してぞっとした。まあ、そういうものかもしれないと考え、それ以上の思考は進めることなくこの考察はとめていた。

 さて、そんな中で冒頭の「ドキュメント72時間」を見た。その中でゲームセンターで一見するとただ暇つぶしにクレーンゲームに没頭する人たちの中には、実は大きな意味をもってゲームに向き合っている人もいるという事実が描かれていた。例えば、お昼休みにフィギアのクレーンゲームをするOL。彼女にとってこの時間は生活の中で何よりも大事な時間だそうだ。上の仮説でいうと1にあたる。他には、派遣切りにあって漫然と生活をしている男性。記者とのインタビューをとして、彼にとってクレーンゲームをして商品を取ることは再び人生で何かをつかみ取るためのメタファーになっている気がすると答えていた。これは上の仮説でいうと2にあたるのだろうか。

 もちろん、ゲームセンターにいてクレーンゲームをする人なんて一部だし、さらにその中でNHKの記者が選出してインタビューした人から抽出された事実にすぎないので、一概に先ほどの仮説1、2が成り立つという訳ではない。ただ、少なくとも1、2にあたる人たちが存在するという事実を知れたことが嬉しかった。

 大小や世間体に限らず日常の行為には必ず各人にとって大事な意味合いをもつものが存在するはずであると僕は思う。そういった行為は単ににそれだけを観察しても意味不明になってしまうことが多いかと思う。しかし、その行為にその人なりの意味合いが付加されることで納得感が生まれ、場合によっては、美しいものへと昇華されることがある。例えば、中年のオヤジがぬいぐるみのクレーンゲーンを毎日やっているのをみたら正直ぞっとしてしまうと思う。ただ、それが自分にとっての生き甲斐である孫を喜ばせるための行為と聞けば暖かい気持ちになってしまう。
 
 やっぱり人生は映画のように美しいものであってほしいし、そうした美しさに触れながら生きていきたいと思うばかりである。各人の美しい部分が理解し合えるような仕組みがあるといいのになと思う今日この頃であり、そう考えると現在のメジャー情報シェアサービスのあり方はどうなのだろうと次なる疑問が生まれる。

続く。