資本主義とか退屈とか60年代に関しての雑感

文章を書きたい気分になったので、最近考えることと、それに関連した本をもとに、(本当に)久々にブログを書こうと思う。

中心は、タイトルの通り資本主義で、興味をもっているのは言うまでもなく僕が資本主義社会に生きているから。でも、そもそも資本主義って、と考えることはあまりない。だから、考えることにした。

経済って、僕らが何かを必要としているという事実(需要)があり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)ということが基礎に置かれている。そして、経済は、資本主義というシステムにおいてうまく循環していく。それは、資本主義というシステムが、人がより多くのモノを欲し、結果的により多くのモノがつくられるられるという構造をもっているからだ。

もう少し突っ込んで書くと、資本主義って、「資本を自己増殖する」ことで、つまり、儲かったもの(消費せずに残ったもの)をさらに投資してさらなる利潤を得ようとすること。利潤の最大化こそが僕たち資本主義に生きる人間にとっての最大の行動原理ってことになる。

そして、投資の結果、多くのモノが生まれ、僕たちはそれを消費し、さらに残った資本が再度投資され、さらに多くのモノが生まれ、僕たちはまたそれを消費する...と、ずっと投資と消費の循環が続いていく。こうして、多くのモノに囲まれ、それらを消費して、僕らの生活は豊かになってきた。

経済を勉強している人にとっては当たり前のことのように感じられるかもしれないけど、意外に資本主義って何って聞かれてゼロから考えて答えを出せる人は少ないんじゃないかと思う。自分達が生きている社会の根本にあるシステムなんだから責任をもって知っておきたいというか、思考を巡らせて考えられるようにしておきたいと思う。

それはさておき、資本主義は、個々人が利潤を最大化を図るという、とっても「自己中心的」なシステムで、その結果、競争が起きる。競争に勝った者が利潤を得て、負けた者は失う。とっても分かりやすい構造になっていて、この点が僕は好きだ。

新版 史的システムとしての資本主義

新版 史的システムとしての資本主義

一方で、弊害も多い。

例えば、僕たちは豊かになって金銭的余裕と時間的余裕を手に入れた訳なんだけど、時間的余裕は同時に苦悩も生み出した。「退屈」というやつだ。昔だったら、生存のためにすべての時間が割かれていたがもちろん今はそんなことがない。食っていくだけのお金を稼ぐだけの時間は一日の半分にも満たない。

パスカルは以下のように言っている。

生きるための十分な食い扶持をもっている人なら、それで満足していればいい愚かなる人間は部屋に満足してゆっくりしていることができない。
だからわざわざ社交にいって出かけてストレスをため、賭け事にこうじて金を失う。...

僕を含め、この言葉にドキッとする人は多いはずだ。卒論が終わって暇だなどと騒ぎ、自分が暇で退屈であることを主張して、なんとか暇つぶしの相手や道具を探している。そもそも、暇であると騒いでいること自体が退屈しのぎなのかもしれない。友達とカラオケに行くという場合、多くの場合、退屈をしのぐのが欲望の原因であり、カラオケに行くのが欲望の対象であって、カラオケに行きたいからカラオケに行くわけではない。部屋にじっとしていられない自分、つまり退屈に耐えられないみじめな自分を直視できないのだ。

資本主義から話は離れていくが、そもそも僕たちが退屈を恐れるのは、退屈とは多くの場合、孤独と隣り合わせであるからだ。だれかと繋がっていたい。そして、僕たちは誰かとの「繋がり」を感じた時にリアルに生きてると感じる。他の人との皮膚感覚での触れ合いを通して、自分自身を認識するのだ。

僕は60年代が好きだ。それは人にも音楽にも映画にも躍動感があって、そして、それぞれが自分を探そうと必死であり、泥臭く、暑苦しいかもしれないが、そこに確かな「生」を感じるからだ。かれらは、必死に自分自身を模索するために、他者の触れ合いを求め、他者との触れ合いの場としての社会を形成しようとした。その発露の一つが、学生闘争だったのだろう。

僕たちは、その点、人と繋がりたがる癖に、妙に無責任なとことがある。多くの人が政治、経済状況に対し無関心で、めったに本気で議論できる人なんかいないし、繋がりの場を自ら創るのではなくSNSなど既存の操作的につくられたものに委ねる。「ゆるい繋がり」を通して、安直な安心感をえるだけで、コミットを嫌い、結果的に自己認識も希薄で人任せであることが多いように思う。

社会全般に憂慮をもってそこに当事者意識をもつことは、「未熟者が何様だ」と退けられる。でも別に誰様のためでもなくて、結局は自分のためなのだ。僕は社会全般に関する議論を熱意をもって人とするのが好きだが、(だからこのブログを書いてる節があるし、ぜひ、コメントして議論を交わしてくれると嬉しい)これもまた、究極の自己中心的行為なのだと思う。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

60年代のリアル

60年代のリアル

資本主義から始まり、自己認識の話へと議論が拡張していったが、最終的に「自己中心性」に議論は収斂されると思う。もちろん負の側面を多く持つ言葉であるが、同時に一貫した基準に基づく合理性という側面ももっていると思う。僕は、こうした「一貫した合理基準に基づく行動」をカッコイイと思うし、熱意をもって追究したいと思うとことである。