「轟」で感じる日常

吉祥寺に訪れるとふと訪れたくなるカフェがある

仲町通りを三鷹方面に進むこと、10分ほど。土日のカップルや家族連れの喧噪がすこし和らぎ始めたころ、ズンズンとした歩みゆるめ、あたりを見渡し、何気ない吉祥寺の日常に安らぎを感じる。

そんな感情に包まれながら、後ろ髪をひかれるかのように、アレレと覗き込みたくなるようなポケット空間。それが、「轟」

狭く、ぽつねんとした扉が、ある人には優しくささやきかける。ささやかれた人は、フラッと店に身を委ねることとなる

意味をもたない言葉、気まずい沈黙が交互に繰り返される飲食店にありがちな光景はここでは無縁だし、互いが腹の内を探り合うようなファニーゲームもないし、ファストフードの名の下、均一な時間と均一な味で提供される飯をただ胃袋に落とし込むために無感情に食らう収容所かのような風景もない

ただ、自然な時間の流れのなかで、自然に手が伸びる棚の本に目を通せばよい。文章を読むのに飽きれば、親父がコーヒーを丹念に淹れる姿を見て、湯を一周して手を安め、また、湯を一周させる心地よいリズムと、次第に店内にあふれる香ばしいコーヒーの香りを楽しめば良い。
(時にいる、いかにも野暮な客は鞄を机の上に!置いて、むなしい写真の取り合いっこをして席を後にする、10分程で)

どこの国の、だれが撮った写真かは分からないのだけど、壁に掛けられて大きなスナップをポート眺める。ニューヨークかロンドンか、どこか海外の街の写真なんだろう。写真の建物の窓一つ一つの中で繰り広げられる日常に思いを巡らせる。仕事をしている人、夫婦喧嘩をしている人、ショッピングをしている人、秘事とに没頭する人たち、家路に急ぐ車。そんな、思いを巡らせる。


また、店を見渡すと、買い物服をぶら下げ日記をつけるおばあさん、一日の商い結果を話す商店街の人、お昼の散歩帰りにフラと一服に立ち寄る人。ここにも、それぞれの日常がある。

繰り返される日常。意味ある日常。話したくなる日常。騒がしい日常。静かな日常。美しい日常。それぞれの日常を感じて、非日常を味わう。旅にしても、食事にしても、何にしても、これが楽しみの妙かなと思いながら、沈殿した生クリームでとろとろになったアイリッシュコーヒーを飲み干し、本を閉じて、僕も日常にもどり、家路へとつく。